夕暮れの裏庭から

思い出とか、考え事とか、いろいろ。

孤独感と有用性

それが何であったとしても、何かに対して切実な人はほとんどの割合で何かしらの寂しさを抱えていると思う。すでに誰かが「存在意義の証明」のような言い方でピン止めして語っているとは思うが、この二つの現象はきっと有意な相関がある。

自分語りがいいものとも思わないが、ぼくの話をする。
例えば実家からひとりの住まいに戻ったとき、話し相手がいないことや、自分以外の誰かが立てる音が聞こえなくなることに対する寂しさを抱く。と同時に、何か生産性のある行為のために時間を使わなければならないのではないかという、焦りとしか名づけようがようがない感情に駆り立てられることがままある。
じゃあそこで何をやるのかという具体的なことは大概考えついていないし、とるものもとりあえず目についた読みかけの本を開いてはあまり頭に入ってこなかったり、別にその時に読まなくてもいいようなネットニュースやWikipediaの記事、インフルエンサーの切り抜き動画に時間を費やしてしまうもので、やがて経過に気づいて後悔とともにより一層その焦りが深まり、ぼんやりと形の定まらない、しかし脳裏に張り付いてしまった生産性に対する志向が加速する。
別にこの心持ちは実家から戻った時に限った話でもなく、親しい友人と別れた際なんかにも訪れる。

どうして、ぬかるみにはまるようなことが起きてしまうのか?

ぼくはそれが、「自分の存在を担保してくれる存在の不在」によって起きるのだと思うのだ。
というのも、例えば家族というのは、ハイデッガー風の用語を使えば、自身の存在を基本的には承認してくれる。話しかければ返事があり、何か、本を読んだりものを書いたり、あるいは映像を見るといった個人化されたことに取り掛かっていても、その行為している自己を、例えばコーヒーを淹れるといったような形や、あるいはそっとしておくといったような無為の形であっても、「気にかけて」くれている。この「気にかける」というのが受け手の自己の存在に対する生存確認となっていて、そこに、仮にその時間がはたから見て何の生産性のない過ごし方であっても、存在そのものの承認が生まれる。
しかし、人が剥き身の個人として、そんなつながりの外に放り出されるとどうなるだろうか?
端的に言えば、新しく承認してくれる誰かを探すしかなくなる。実感として、あるいははっきりと目に見える形で承認してくれる誰かを。

ここから先は環境や性格的な話でどんな目標形態をとるのかが変わってくるのだが、自分も含めて人は何かしらの承認に対する焦りにかられるのだと思う。自分の場合は利益につながるような新しい知識や情報を手に入れなければ、あるいは職業柄、何かしらの企画書やプログラムを作成しなければ――つまり、自己の有用性を誰から見てもわかる形で証明しなければならない――と追い立てられているような気になってしまうし、人によってはSNSにアップするためのネタ探しにはしってみたり、マッチングアプリで結びつきそうな相手を探してみたり、買い物依存のような形をとったりしてしまうのではないか。
当然、顕現の形態は、ここに上げきれないほど無数にある。

このぬかるみにはまらない、あるいはできるだけ浅いところで切り上げるにはどうすればいいのか。
一番効果的な解の公式は、恒常的に、しかも無条件に自己の存在を承認してくれる、つまり「自分の存在を担保してくれる存在」を身近に見出して同居するなり、できるだけ絶え間なく一緒に過ごすなりすることだろう。だが、そんな都合のいい存在というのはいるものでもないし、もしそれが実現してしまうのであれば、承認される側と承認する側との支配被支配の関係に等しい。
では、落としどころとしての次善の策は何か?
ぼくは、できるだけ能動的な思考の出力を低下させることだと思う。思考の出力を低下させると、行為と結果の相関性を遠ざけることができる。意思の活動を、極力低く保つことができる――つまり、焦りの暴走をあたう限り遠ざけることが可能になる。そして、他人に対して、自分なりにニュートラルな状態で接することが可能になる。
もちろんこれだって万能解ではないし、誰にだって当てはまるわけではない。性分的に受け入れたくないということだってあるし、それができないほど切迫した環境に身を置いている場合だってあるはずなのだから。

 

だがぼくは今のところ、そんなふうにして、極力ぬかるみにはまらないようにしているつもりだ。