夕暮れの裏庭から

思い出とか、考え事とか、いろいろ。

「2002年」、色とりどりの

様々な言い方がもうなされていて、私が述べるまでもない。

だが改めて書いておくと、『仮面ライダー龍騎』は革命だった。

同時に、躁の発露の一端だった。

 

考えてみてほしい。

色の違うヒーローがTVの画面上に存在するということは、何を意味したか。いや今であっても、どんな意味として受け止められているか。

それはすなわち、「共通の目的の実現のために、協調する」という象徴ではなかったか。

現にゴレンジャーから始まる戦隊ヒーローは50年を数える今年に至るまで、色違いのヒーローたちは「悪」とされるものを討ち滅ぼすべく一致団結を見せる。仮に初めは主人公の敵役として登場したキャラクターであっても、放映終了までのどこかで、主人公サイドの同志に加わる一幕があり、大団円の一員として結末を迎える。無数の派生形が生まれ、繰り返され、その類型は仮面ライダーでも演じられていた。

 

2001年の『仮面ライダーアギト』までは。

 

各話のディティールや企画の成立過程は割愛するものの、総体、画面上の現象として捉えれば『アギト』は前出の象徴をなぞる物語だった。ヒーローたちは紆余曲折を経て、外敵から人類を守るために戦う。

 

しかし2002年の『仮面ライダー龍騎』のヒーローたちの敵は、ヒーローたちである。

 

物語は、唯一の生存者となった者のみが望みを叶えることができるというバトルロイヤルを作劇上の前提としている。その闘争に、各々の色を与えられた13人の仮面ライダーたちが己の願望と身を賭して臨む。物語の結末には、最終にして唯一の生存者のみが到達でいるという筋書きで、話は進む。

ここでのヒーローたちの色は「共通の目的の実現のために、協調しない。かつ、互いに戦う」という象徴である。

龍騎』の系譜がどのように発展したか、あるいは廃れたかについての議論にはここでは触れない。

肩透かしを食らったかもしれないが、私の関心は、「2002年」を支点に目線を移した先にある。この年、おそらく日本人であれば誰もが耳にしたことのある「名曲」が生まれた。

 

世界に一つだけの花』である。

 

この歌では、ある理想が掲げられている。「それぞれに異なる個性を持つ他者同士は、自らと他を分ける差異を際立たせることができれば大団円にたどり着ける」という理想であり、語るための梃子になっているのは、「色」という概念である。

そう、この場合の「色」を通じて覗いている座標は、『龍騎』と正反対に位置しているのだ。

 

「色」を題材にした二つの作品が全く違う相貌で立ち現れたことに、何かの意図が介在しているといったことはあり得ない。そんな馬鹿げた陰謀論を掲げる気も、毛頭ない。

しかしこの二つを生んだのは、日本という一つの社会である。私には、統合失調症の患者における、ポジとネガの関係を持った一見別々の、しかし同根かつ一体の躁状態が象られているように見える。

あくまでいっときの現象を分析しただけなので、その後何がどうなったのかについてはまた書くかもしれないし、もうこれ以上のことは書かないかもしれない。

 

しばらく前にぼんやりと思い浮かんだまま脳裏に住み着いていたので、整理するために記述した。