夕暮れの裏庭から

思い出とか、考え事とか、いろいろ。

点景_6

 満開の桜に囲まれた校舎の光景が記憶に残っているから、あれは確か中学一年か二年の、年度が変わる頃の話だったと思う。
 吹奏楽部に所属していた僕はその日、練習はなかったものの、前日の忘れ物を取りに音楽室に向かった。忘れ物が何だったかはすっかり失念しているし、挙げ句持って帰ることも失念してしまったのだ。それでも特に困りごとにはならなかったから、そんなに重要なものではないはずだが、本来なら用のない学校にわざわざ出向いたのだった。
 下駄箱で上履きに履き替えて廊下を歩いていると、あまりの静けさに驚かされたことを覚えている。校舎といえば普段は生徒たちの足音や声であふれているか、校内放送や演劇部のトレーニング、あるいは自分たちの奏でている楽の音がつきものだった。あまりに静かすぎて足音を立てることもはばかられるような、そんな静けさだった。
 音楽室は四階にあり、その手前の踊り場に着いたところで、思いがけない音色がふと耳に触れた。
 誰かが、ピアノを弾いている音だった。
「……?」
 演奏しているのが誰なのかは、全く心当たりがない。ただ、恐ろしく上手なのは確かだ。躍動し、駆け抜けるようなグリッサンド。音の輪郭がしっかりと形取られ、澄んだ旋律。おそらくブラスのメンバーではないーーピアノを誰も弾けないというわけではないが、ここまでの芸達者はいないはずだ。
 僕はその音色を壊してしまわないようにそっと廊下を歩き、ドアを恐る恐る開けた。
 ピアノを弾いていたのは、全く見たこともない女子生徒だった。制服を着ているからうちの生徒なのは確かだが、背丈は確実に僕よりも高く、一つか二つしか違わないとは思えないほど大人びた、髪の長い清楚な女性というべき誰かだった。
 その人は手を止めると、僕を一瞥した。
「あ……ごめんなさい」
 音楽室は誰のものでもない。そこに入ることは謝るようなことでもないはずなのだが、彼女と目が合った僕はその言葉しか口にできなかった。演奏を止めてしまったことはさておき、彼女の奏でる調べに満たされた空間を壊してしまったことが、罪深く思えたのだ。
「……別にいいわ」
 彼女はそう告げると、ピアノ椅子から立ち上がって荷物をまとめると、こちらに歩いてきた。僕はいいようのない緊張でその場から動けず、見ているだけだった。
「何か用があって来たんじゃないの?」
「あ、いえ」
 僕の頭からは忘れ物を取りに来たという目的もすっかり抜け落ちてしまって、返すべき言葉すら浮かばなくなってしまっていた。
 彼女はそんな僕に構うこともなく、鞄を引っ提げて部屋を出ようとしている。凜として整ったその背中を追うようにして、僕もその後に続く。
「あの……どうしてピアノを弾いていたんですか?」
 追いすがるようにして隣から尋ねた。前だけを見ている彼女は僕に一瞥することもなく答えた。
「弾きたかったから。それだけ」
 彼女に合わせて歩いていたが、かなり早足だったのだろう。気づけば、もう下駄箱が並ぶ玄関にたどり着いていた。彼女は自分の靴を置いているボックスの列に消えた。僕も慌てて靴を履き替えると、ドアの前で彼女に追いついた。それから校門まで並んで歩いたが、僕らは無言のままだった。
 彼女は門を出ると、僕の帰る道とは反対方向に進んだ。僕はついて行くべきか一瞬迷い、立ち止まった。
「私、こっちだから」
 一瞬振り向きざまにそう言い残すと、彼女は満開の桜並木の下、文字通り風を切るようにまっすぐ歩を進めた。桜吹雪は去りゆく彼女にあまりにふさわしく、僕はあっけにとられてその姿を見送ることしかできなかった。
 それ以降、学校で彼女を再び目にすることはなかった。もしあの日の後にも在籍していたらきっと遠目でもわかったに違いないから、おそらくは卒業したのだろう。名前も聞かずに別れてしまったことがしばらく心残りだったが、彼女は今どこにいて、何をしているのだろう――
「ねえ、もしもーし」
 カフェの軒先に差す陽光の心地よさにまどろんでいた僕は、隣に座った交際相手――いわゆる彼女――の声で我に返った。
 目の前には、燃えるように色づいて紅葉した木々が並んでいる。ひとひらの葉が、テーブルにのった僕の抹茶に浮かんでいた。