夕暮れの裏庭から

思い出とか、考え事とか、いろいろ。

Sさんの話(後編)

僕は、Sさんに続いて居間に入った……ひと目見て、部屋の密度に圧倒された。
そこには、棚一面に無数のLPレコードや、CD、それから楽譜や音楽関係の書籍が並んでいた。床に積まれたものもあり、読みかけているのか、机に無造作に転がっていたりもする。
もちろん、楽器もあった。キーボードとギターがあったと記憶している。
確か、テレビはなかった。アパートの一階で、窓の向かいすぐに別のアパートが建っていたこともあり、日陰となった室内はさながら秘密基地である。いまになって振り返ると、Sさんが新聞をあえて取っていたのは、この部屋に「余計な音」を持ち込まないためだったのかもしれない……きっと、ただでさえうるさい街の音に、辟易していたのだ。そう思わせるような部屋だった。
「場所空けるよ」
そう言って、Sさんは床にスペースを作ってパイプのスツールを立ててくれた。僕は腰かけると、近くに転がっていた『Rockin'on』だったと思うが、雑誌の一つを手に取った。数ページめくると、インタビュー記事に桑田佳祐が大写しとなっていた。
「サザンとかも聴く?」
外がまだ肌寒かったこともあり、キッチンで暖かいコーヒーを淹れてくれたSさんが居間に戻ってきた。誰にでも耳なじみが良い、大衆性に染まったサウンド……悪い言い方かもしれないが、どことなく、「そんなもの真に受けて聴くの?」という含みもあるような気がした。
「追いかけてるわけではないですけど、手管は色々あって面白いなと思います」
別に、僕はサザンや桑田たちが特別嫌いというわけではない。実際、新しいサウンドを生み出して第一線に立ち続けている技の数々には、脱帽するくらいだ。
一瞬、間ができた。趣味が合わないと断じられたか……? 僕は不快に思われたかと内心焦った。
しかし、これが彼にとって会話のフックとなったのだ。Sさんはたくらみありげに口角を上げた。
「『TSUNAMI』って、『Hey Jude』の変奏なんだよ」
唐突に提示された結論に、僕は虚を衝かれたようだった。一方、心なしか目の彩度が上がった様子のSさんは、おもむろにキーボードを奏でだした。
それは、顧みても鮮やかで見事な証明だったと思う。
楽典的な、あるいは作曲論的な語彙がないせいで、僕がここでSさんに聴いた話を書けないのが悔やまれる。だが、2曲のフレーズを弾き比べて饒舌に語るSさんを見ていると、僕はつくづく目からうろこが落ちるような気分だった。そうか、数度聴いただけで何気なく知識として知った気になっていたが、こんなにも論理的に、パズルを分解して再構築できるのか、と。僕はただただ、Sさんが持っている音に対する語彙と、論理の豊かさに見とれるばかりだった……彼は、実はプロを目指していると僕に言ったが、実際になれるだけの技量があるのではと思ったほどだ。
他にも数曲、Sさんの研究成果が披露されるうちに、外はすっかり夕暮れ時になっていた。Sさんのアルバイトの時間が近づいていたこともあり、その日は解散した。
「これ、持っていって」
帰りがけに渡されたディスクは、『THE TIMERS』、僕は得がたい人に出会ったのだと確信した。
それ以降何度か、お部屋にお邪魔して、音楽論を伺う機会があった。『KID A』は、その際に借りた1枚である……しかし、振り返ってみると、このときから離れていく前兆はあったのかもしれない。Sさんにも、そして僕にも。

さて、本当は、Sさんと離れてしまうまでにはまだ続きがある。だが、僕はこの話をいったんここまでで切り上げたい。はじめは書くつもりで考えていたが、Sさんとまた会える可能性がわずかでもあるうちは、失礼な内容に思えてきたのだ。
いまここで言えることは、彼はとてもこだわりの純度が高い人だった。
最後にお邪魔したのは、卒業が決まったSさんたちへの送別会の後だった。僕は見送る側にもかかわらず、飲み始めると勢いがついてしまって前後不覚に陥りかけていた。二次会の会場からSさんの部屋はそう近くはなかったはずなのだが、そんな僕を肩で支えながら連れ帰って、そのまま横にして朝まで寝かせてくれたのだ。
目が覚めると、それは予想だにしない光景だった。
あれだけ集めていた音源も、楽器も、資料も、すべては夢だったかのように消えていたのである。
僕は二日酔いの痛みにうなされながらわけを尋ねた……目の前にある現実が信じられない戸惑いと、割れるような頭痛も相まって、やっとの思いで言葉を発していた。喋りというよりは、うめきに近かったかもしれない。
だがそんなさまを横目に、Sさんは、初めて出会ったときのように、寂しげにはにかんで、
「売ったよ」
つぶやくように、本人はそれだけしか口にしなかった。
これが、僕がSさんと最後に会った記憶である。
そのあとは、正直なところ酔いのせいではっきりとは覚えていない。長居する申し訳なさもあって、すぐ帰ったはずだ。そのときは、また話せるものだと思っていた。
あれこれ考えることは、邪推にしかならない。だが、その空虚な部屋と、Sさんのうつむいた顔が鮮明に残っている……何か憑きものが落ちて安堵したようにも見えた、儚げな表情が。
それから、僕も大学のあるその街から、そう遠くない場所に引っ越した。再びそこを訪れる機会もあり、ゼミの卒業生とも先生とも会ったのだが、Sさんだけはついぞ会えないまま、僕は諸々の事情で故郷に帰ることとなった。
いまも手元に、借りたままとなってしまった『KID A』が残っている。

Sさんは、いまどこにいるんだろう。