夕暮れの裏庭から

思い出とか、考え事とか、いろいろ。

点景_5

拝啓

春光麗らかな季節を迎えましたが、いかがお過ごしでしょうか。私は少し風邪気味なところもありますが、元気に過ごしています。

一月末頃のことですが、私のもとに取材が来ました。映像は先週の日曜に放送されたとのこと、私は刑務作業に従事していたため見ることができませんでしたが、ひょっとしたらご覧になったかもしれません。もし映っていた姿を目にしていたのであれば、モザイクがかかり声質が変えられていたとしても、私であることがわかったかと思います。血を分けた存在です、認識できたとしてもおかしくないでしょうから。
こちらの住人となる前から硬派な番組というイメージがありましたが、記者とディレクターはそれに違わず使命感を持って映像制作に携わっているようでした。台本やセリフの指示は一切なく、作業現場でこちらを見つめる眼差し、インタビュー中の聞き手として私の来歴に余計な口を差し挟まず、過不足ない質問でこちらを不快にさせないまま話を引き出そうとする様など鑑みると、良質な映像が出来上がっていることでしょう。

さて、私はどうしてあんなことをしてしまったのか。
世間から見れば「愚行」としか言いようのないことに、ひょっとすると塀の中で生涯を終えるような刑期すら降り掛かってくるような行為に走ってしまったのか。
インタビューではもっともらしいことを答えましたが、その実自分でも未だによくわかっていないのです。
いっときの感情に身体が突き動かされていたという言い方でしか結局のところ共有できないのかもしれませんが、私にはそれが運命、あるいは因果であったように思えるのです。私が罪を犯してしまったのも因果によって最初から決められていたこと、彼らがそれに巻き込まれてしまったのもまた因果によって決まっていた。自らの行いを悔い改めよと言われたところで過去の時間が帰ってくるわけではないのですから、私としてはこれからを生きていく上で、そう考えるほかないように感じるのです。結局は自分の思考をコントロールし、身体を制御することしかひとりの人間にはできない。幼い頃から私と一緒にいたあなたならば、理解はしてくれるものだと思っています。共感はしなくてもいい、でも理解はしてほしい。

カミュが書いたように「太陽が眩しかったから」というような詩的な膨らみがある言葉を浮かべられる語彙が私にもあれば、もっと豊かなイメージで直感的に伝えられるのかもしれません。しかし残念ながら、私にそんな才能はないのです。もっとも、いざ自分が罪を犯してみると、カミュの叙述はかなり正鵠を射ていると腑に落ちたのですが。別にあと付けの理由は何だってよかったのです。一瞬、自分の中に宿っている天地や正悪の感覚が眩んで、気がつけば汚れた身となっていた。それが説明できるのならば、かのムルソーにとっては何だってよかったのです。

別に書く必要すらなかった手紙なのかもしれません。しかし、何かしらの形として残しておきたかった。周りにこんなことを語っても誰も取り合うことはありません。日記にでも書いておけという話なのかもしれませんが、ひょっとしたらあなたなら記憶の海の底にでも、残しておいてくれるかもしれないと思った次第です。

きっと私は明日の朝も定刻通りに目を覚まし、刑務作業に就き、食事を摂り、眠るでしょう。太陽はいつも通りに昇り、塀の中にも外にも喜びと悲しみがときに訪ねる。まるで小沢健二のような言い方ですが、結局は時間だけが過ぎてゆくのです。近代のとば口に立ったデカルトが間違っていたのか、あるいはカルテジアンたちがデカルトの記述した概念を誤って伝えてしまったのかはわかりません。ですがこの世界の本質は、きっと空間ではなく時間にあるのでしょう。空間における変動は、時間の経過の表象に過ぎないのですから。

長々とここまで続けてきましたが、書きたいことはひと通り書くことができました。
季節の変わり目ですから、体調を崩さないようお気をつけて。
それでは、またお会いしましょう。

敬具