夕暮れの裏庭から

思い出とか、考え事とか、いろいろ。

それはコミュニズムでは?

僕は、とあるメーカーで雇われSEとして働いている。

転職は何度かしたが、今の職場が一番働きやすい。現状、給与・福利厚生で文句をつける点はない。人間関係も、風聞レベルでは色々あるとはいえ、生産や営業活動をフリーズさせるような事案はまだ起きていない。つまり自分には、害がない。

ただ、入社以降、純な不思議として、ずっと解けていない問いがある。それは、周囲の自社に対するロイヤリティの高さなのだ。

ロイヤリティ、をもう少し解像度を上げた言い方にするのであれば、「仕事とアイデンティティの重なり合う人たち」ということになると思う。僕の場合、なぜ「今の会社で働いているの?」と尋ねられたら、「他に一日のうちで、することもないから」と言う回答になる。平日他にすることもないから働いていて、思索の時間が確保できることは必須要件、報酬が高ければなおよし、人間関係はそもそもそこまで他人に興味がないのであまり気にしない、という程度の意味合いである。別に必ずしも自分の仕事に他に適任者が全くいないとは思わないが、運の巡り合わせで就業している、自分と会社の結びつきは契約通り金銭、別に周囲の人間が嫌いではないが、アイデンティティを賭すようなものでもない……という感覚で働いているし、一般的な感覚だと思っていた。

しかし、周りを見ると、案外そうでもない。会社との結びつきが、実感として金銭以外にもある、各々を会社の資源として投じよう、という気があるようなのだ。僕にはない感覚であり、素敵なものと認めつつ、遠い目で眺めている。

僕がどうしてそれに乗れない、より正確には、乗らないという選択をしているかといえば、会社の利益のために使役されているのが自分であっても、別に所有者は自分ではないし、その展望もないから、というのが理由である。ずいぶんマルクスの毒が回っているのかもしれないが、考えても見てほしい。会社が利益のために、従業員に資源としての自己の提供を求めるのであれば、その分、株式会社であれば株式という形で、所有権も分譲するべきではないのか……僕からすると、どうにもコミュニズムでしかフィックスされない問いがあるように見える。

生協なんて、そんなイメージなんだろうか。

もっとも、現代の日本で企業に属して働くというのは、最初からその歪んだ前提を呑んで働いているわけなのであり、あとはどこまでアイデンティティを譲れるか、という話になる……というところで、僕はそれまで譲ることが必ずしも、理性的な善だとは思っていない。

もちろん、これは個人の思想の問題なので、各人の好きなように振る舞ったらよろしい、というのが結論になる問いだ。僕だって、自分と同じ思想を他者に押し付けるつもりは更々ない。

ただし、そんな奇妙な歪みを抱えて、僕は出勤している。