夕暮れの裏庭から

思い出とか、考え事とか、いろいろ。

対人関係の感度

「他人の立場に立てる人」を、ぼくは純粋に畏怖する。
ずっと昔からそうだったのかといえば、そんなことはない。自分もそうあるように努めていた時期があった。だが、とりあえず現状の結論としてはそう考えている。

畏怖という言葉をどう受け取るかについては読み手の知識や性格次第だとは思うが、別にその対象が嫌いというわけではない。付き合っていて自分にとって不快では無ければ、彼あるいは彼女は畏友ということになるし、残念ながら馬が合わなければそれは敬遠の対象になる。
ではなぜ、畏怖というまなざしで見るのか。それは「他人の立場に立てる」という要素が自分にはない、全く異質なものだからだ。これは損得勘定よりももっと皮膚感覚寄りの話だが、ぼくにとってその要素はつまり相手の業や念の負担を引き受けることと同義であると思う。もちろんその人の業や念を背負いきれる自負があるのならそうすればいいだろうし、「他人の立場に立てる」と自認しているのであれば、その自負もあるのだろう。ただし、ぼくにその覚悟は到底ないし、ないのに引き受けるのは傲慢で、おこがましく、無礼極まりない。もっと生々しく吐露すれば、そんなことを引き受けて他人の情念の雁字搦めになりたいとも思わない。

もっともこれは程度問題で、片棒を担いでも負担にならない水準の話であれば、ぼくもそんな役を演じることにやぶさかではない。現に、そのレベルでの頼み事は抵抗なく引き受けているし、その線を越えない程度には周囲の関係も維持している。

あくまでこの思考はぼくの選択に過ぎないから、自分の周りにいる「他人の立場に立てる」人の存在を否定する気はないし、そんなぼくと過ごしていて相手が不快でないのなら、とりあえず力を合わせられそうな部分はお互い手を組めばいい。だがぼくはそんな他人を畏怖するばかりであり、いまのところどんな他人に対してもできることといえばせいぜい「共感はしないが理解はする」というスタンスで接するくらいだ。