夕暮れの裏庭から

思い出とか、考え事とか、いろいろ。

「1996年」の「ポケットモンスター」

事前に、ふたつのことをことわっておく。

まず、これから書くことは私が方々で話したことであり、おそらく私以前にも誰かが発見しているであろうから、おそらくは、決して目新しいことでもなんでもない。あくまで、もう2年近く前に思いついたことだが、ふと記憶に蘇ったので、書き留めておく。

次に、私がそのゲームに対して最後に手を付けたのはもう10年以上前のことに過ぎず、よって、そのゲームのコンセプトやディティールがどのような変化を遂げたのかは全く知らない。この批評は、決して製作者側の意図を読み取ろうとするものではなく、あくまで現象に対してのテクスト論である。上記のことをご承知の上で、お読みいただきたい。

 

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今になって思えば、「ポケットモンスター」の根幹に宿っている、つまりその他のあらゆる修飾を省いても残るテーゼは「汝の隣人を疑え」かつ「無謬の母性を信じよ」ではないか。そして、そのテーゼに対する違和感がなかった、という社会的土壌が、空前絶後といってよいブームを生んだのではないか。

かつてプレイした際、幼心にどことなく、前言語的に認識していたことではあった。そしていま、「ポケモン」以後の文化現象の地殻変動を振り返ると、どうにもそのテーゼしか残らないように思えるのだ。

論拠を、プレイヤーに存在の場として開かれている、ゲームシステムの点から述べてみたい。

かの世界では、おそらく主人公以外の受ける社会的保護を主人公は受けることができず、それが当然の社会的な共通認識としてある――少なくとも、現象としての登場人物たちは、そのように振る舞う。主人公は他者の視線に触れただけで、有り金を奪うか奪われるかという闘争に、一方的、不可逆的に巻き込まれる。そして、主人公が敗北すれば無条件に有り金の半分を奪われる(当然、貯蓄の状態によっては数十万単位の金銭が動くこともありうる)。一方で、主人公以外が敗北した際には、財産の半分を奪われているような様子はない(資産家のような相手を打ち倒しても、数千円程度の収入しか得られない――果たして彼のカードからはいくら引き落とせるだろうか?)――そんな不平等な条件下の戦いに関して、主人公に、それを受けて立つか否か、という選択肢を持ち合わせていない。

これを現実の通念に引き合わせれば、警察権の欠如した、アナーキーな社会状態――しかも、主人公の生存にとっては極めて不利に作られた社会――と見るのが順当だろう。だが、公権力は欠如していない。キャラクターとしての警察官がいることにはいて、警察権が機能しているという前提があるのだ。

無粋と言われればそれまでなのだが、私には、あの世界では主人公から金銭を条件付きで収奪することが公的に認可されているのではないか、と思えてしまうのだ。

加えて、主人公にとって唯一の無償の救いが、母である。母のもとに帰れば、使役する闘争代理者の健康状態が回復する(同じ機能を持つという意味では、各行政単位に置かれている「ポケモンセンター」は、母の分身、あるいは外延化されたもの、つまり同一のものである)。しかし、それ以外の殆どの人物とは、金銭のやり取りか、金銭をめぐる戦いを通じてしか関わり合うことができない。

私は上に述べたようなことから、1996年の「ポケットモンスター」が抱えていたテーゼは「汝の隣人を疑え」かつ「無謬の母性を信じよ」であると見立てている。かつ、そのリアリティが積極的に、かつ広汎に受容されたというのは、そのテーゼが当時の社会にとってあまりに順当なものだったからではないか。

ポケットモンスター」以後の文化現象を鑑みると、たとえば「仮面ライダー龍騎」では、13人の色違いの仮面ライダーたちが己の願いを叶えるために、端的に言えば殺し合うというドラマが演じられた。しかし考えても見ると、それまで色違いのヒーローというのは、協力して何かに立ち向かう、というのが受け手にも作り手にもに染み付いた感覚ではなかったか。それが転換を迎えたのが2002年というわけだが、私は、「汝の隣人を疑え」というテーゼにおいて、地続きであると考えている(「無謬の母性を信じよ」についても地続きであると思っているのだが、話が長くなるので割愛する)。かつ、それらのテーゼの一方の表出形が「仮面ライダー龍騎」であったとすれば、時を同じくして現れた、コインの裏表のもう一方の表出形が、「世界に一つだけの花」であると、言い切ってしまうことが許されるのであれば、確信している。

 

果たしてここまで読んだあなたがどう受け止めるかは、私の与り知るところではない。ともかくも私の達した結論は、以下の通りである――「ポケットモンスター」の抱えているテーゼの核は「汝の隣人を疑え」かつ「無謬の母性を信じよ」であり、いまも通奏低音として宿っているのではないか。

(了)