夕暮れの裏庭から

思い出とか、考え事とか、いろいろ。

幻の「怪獣論」序章草稿

以前、どこかに載せるつもりで私家版「怪獣論」を構想したことがあった。

結局機会を逸し、私自身も熱が冷めてしまったので序章の草稿で放り出してしまったのだが、せっかくなら誰かの目につくところに保存しておこうと思う。

 

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黄金の日日』では、助左がひたすらに南方を目指す。琉球高砂(台湾)、ルソン......その姿は、戦後、いや明治の殖産興業から続く日本人の「南方」幻想に繋がるのではないか。生命力にあふれた場所、未知なる楽園、平和な夢の国。ところが、戦中の日本人はそこで戦火の地獄を見、実際に戦火なくとも人間の生存にはあまりに 過酷な自然環境があることを知っていたはずだ。しかしその記憶を糖衣で固めて隠そうとするように、リゾート化、あるいはユートピア化の幻想を作り上げた。私は、その「南方」の現実と幻想、怖さと遊戯性を、危うい均衡そのままに表しているのが怪獣 であるとみる。思えば名怪獣と呼ばれる者は、南から来る者であふれている。ゴジラアンギラス、モス ラ、キングコング、ゴメス、リトラ、レッドキングジェロニモンゴモラ、シーモンス、シーゴ ラス、テロチルス、その他多数。逆に「北方」からくる者はどうであったかというと、ほとんど北国あるいは雪国生まれの怪獣というのは、いない。むしろ寒さを武器にする怪獣は、ガンダー然り、スノーゴン然り、ギラドラス然り、宇宙人の手先として扱われていた。つまり、北方とは、得体の知れない暗い宇宙と、イメージが結びついていた。実際、昭和年間のソ連を考えれば、そのイメージが、現象として反映されているのも一理あるのではないか。 そして「北方」=「宇宙」ということを踏まえると、「南方」から来る者に対抗するためのヒー ローとしてのウルトラマンとは、ある意味で「北方」から来る者なのだ (「北方」=「宇宙」、ということを踏まえると、「寒さに弱いセブン」というのは、「南方」 を素直に楽園とも捉えられず、「北方」をそのまま得体の知れぬ宇宙とも断じきれない、金城や上原、市川の微妙なねじれた心理をそのまま表していたのではないか)。 怪獣とは、人間の生存を脅かす恐怖であると同時に、スクリーンに花ひらくスターでもあった。それは「南方」に対して戦後日本人が抱いてきた現実/幻想が、そのまま像を結んだのだ。もう一方の極に立つ「北方」も、得体の知れない恐怖を表していた。それを鎮めるために、どちらともつかぬウルトラマンが必要とされたのであろう。 南方のリゾート化が完成すると、怪獣達は、もう「南方」から来ることはなくなった。そして脅威に対抗するために必要とされたヒーローは、得体の知れない「宇宙」=「北方」から訪れていた、ヒーローは、来なくなったのである。

平成ウルトラマンは、そんなねじれが平板化された次元で展開されているのではないか。彼らが地球生まれの「光」であったり、人間と対話可能で同じ思考の次元にあるのは、「南方」の糖衣が完成すると同時に、糖衣ができるまで見え隠れしていた恐怖に対抗するためのもう一つの毒、「北方」の全く異質な恐怖感がなくなった、日本人の外国像の表れではないだろうか。

(了)